ビリー・マーチン


ビリー・マーチン

ビリー・マーチン(Alfred Manual "Billy" Martin 1928年5月16日生)
 [アメリカ・プロ野球選手/監督]


 カリフォルニア州バークレー出身。1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレー、現役時代はミッキー・マントルやロジャー・マリスの陰に隠れる格好であったが、ここぞというところで打つなどの勝負強さがあり、ワールドシリーズでの打率.500(24打数12安打)は今も破られていない。現役時代からマーチンは野球の戦術面で、ケーシー・ステンゲル監督をはじめ、多くのコーチに教えを請うことが多く、チームメイトのミッキー・マントルも「あれほど情熱的に野球を教わっていた人間は見たことがない」と言わしめるほどであった。1957年に、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」で起こした乱闘騒ぎにより、ヤンキースを追われるような形でトレードに出され、その後カンザスシティ・アスレチックス、シンシナティ・レッズなどを渡り歩いて1961年に現役を引退した。

 引退後はファームでのコーチを経て1969年にミネソタ・ツインズの監督に就任、その年に地区優勝を果たしたが、同年、フロントと対立してあっさり退団してしまう。しかし、その間にチームの看板選手だったロッド・カルーを鍛え上げた。その後、デトロイト・タイガース、テキサス・レンジャーズでの監督を経て、1975年からは古巣ヤンキースの監督を務めたが、当時からのオーナーであるジョージ・スタインブレナーや1977年に移籍でやってきたレジー・ジャクソンらとたびたび対立し、タブロイド紙はこの当時の球団を「Bronx Zoo(ブロンクス動物園)」などと揶揄した。1982年にはオークランド・アスレチックスでも指揮をとり、盗塁王リッキー・ヘンダーソンを育てている。

 本塁打の破壊力と機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれたが、現役時代から見られた武闘派とも言える彼の短気と猪突猛進な性格は多くのトラブルを生んだ。青年時代はボクサーを志していただけあって、そのパンチ力は並外れており、その鉄拳で引き起こしたバーやクラブなどでの乱闘騒ぎは膨大な量になる。前述の「コパカバーナ」での乱闘のほかにも、ツインズ監督時代には主力投手のデイブ・ボズウェルにかなり激しい鉄拳制裁を加えたり、1979年10月にはマシュマロを売りにきたセールスマンを叩きのめしたり、地元ニューヨークの記者の前歯をへし折るなど。スタインブレナー・オーナーとの愛憎入り混じった関係も有名で1988年までにヤンキース監督に5回就任し、5回解雇されている。「まるでSM関係」と評するマスコミもいた。 また、1983年7月24日の試合でカンザスシティ・ロイヤルズのジョージ・ブレットが9回表に逆転2点本塁打を放った直後にバットに塗られた滑り止めのための松ヤニ(パインタール)が規定を超えているとして抗議、パインタール・バット事件を起こした事でも有名である。

 1989年12月25日、ニューヨーク州ビンガムトンで乗っていたトラックがアイスバーンで横転する事故により死去。この訃報を聞いたスタインブレナー・オーナーは「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」というコメントを残している。墓はスタインブレナーの計らいで、ベーブ・ルースの墓と同じ区画に建てられている。野球殿堂入りはまだ果たしていないが、死の3年前になる1986年に、古巣ヤンキースは現役・監督を通じてつけていたマーチンの背番号『1』を永久欠番に指定している。

 1989年12月25日死去(享年61)


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