泉清子


泉清子

泉清子(いずみきよこ 本名:泉井初子 1909年12月21日生)
 [女優]


 大阪府生まれ。1924年4月、旧制小学校を卒業し、満15歳になった1925年、女優の津守玉枝の内弟子になり、同年4月、帝国キネマ演芸小阪撮影所に入社した。同年に公開された『雁金文七』(監督山下秀一)に主要な役柄に抜擢されて出演、映画界にデビューした。1926年3月、同社の芦屋撮影所に移籍するが、家庭の事情で止むを得ず退社し、カフェー「ユニオン」を経営していた。1928年、牧野省三が主宰する京都のマキノ・プロダクションに入社する。同社はその後、経営が悪化し、1931年4月24日に公開された『京小唄柳さくら』(監督金森万象)が同社の最終作品になったが、泉は同作にも出演している。

 その後、帝国キネマ演芸に復帰し、同社の太秦撮影所に所属、『天保入墨奇談』(監督押本七之輔)に出演、同作は同年9月8日に公開されたが、同社がそれに先立つ同年8月28日に新興キネマに改組されたため、泉は継続的に新興キネマの撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所)に所属した。1936年5月7日に公開された『桃色武勇伝』(監督山内英三)に出演したのを最後に、同社を退社、反時代的にサイレント映画を製作する極東映画に移籍した。1937年には、京都に戻り、マキノトーキー製作所の跡地にできた今井映画製作所に入社するが、1938年4月21日に公開された『俵星玄蕃』(監督児井英男)に出演したのを最後に同社を退社、満28歳で映画界を去る。

 中国大陸に渡り、北京市内で日本式のバーを経営するが、第二次世界大戦が終結し、財産をすべて失って引き揚げる。大映京都撮影所が製作し、1947年6月10日に公開された『田之助紅』(監督野淵昶)に出演したが、それ以降の出演記録は見当たらない。その後は、祇園の一角で料亭を経営していたが、1950年8月26日、死去する。

 1950年8月26日死去(享年40)





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