クライド・マクファター


クライド・マクファター

クライド・マクファター(Clyde McPhatter 1932年11月15日生)
 [アメリカ・歌手]


 ノースカロライナ州ダーラムにて、厳格なバプテストの一家に生まれる。幼い頃から聖歌隊の一員として歌っている。第二次世界大戦後にニュージャージー州に引っ越し、1950年、18歳の時にビリー・ワード&ザ・ドミノスに加入し、フェデラル・レコードから「シクスティー・ミニット・マン」を発売する。1953年春、アトランティック・レコードの創設者アーメット・アーティガンによって才能を見出され、同年アトランティック・レコードと契約、ドリフターズのリード・シンガーとしてデビューを果たす。マクファターがリードをとったドリフターズのデビューシングル「マネー・ハニー」は、最初のロックンロールのレコードの一つとされており、また後年にエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードによってカバーされる。

 1954年、兵役で空軍に所属し、ドリフターズを脱退する。翌年に兵役が終わり、再びアトランティック・レコードにてソロ歌手として活動をする。ソロ・デビュー曲は、同じ会社に所属していたルース・ブラウンとのデュエットであった。しばらくシングルを出していたマクファターであったが、そのどれもがR&Bチャートで上位を記録する。しかし、1956年発売の「ウィズアウト・ラヴ」が19位、「トレジャー・オブ・ラヴ」が13位、そして1958年発売の「ラヴァーズ・クエスチョン」が6位と、それぞれポップチャートの上位入りを果たしている。

 1959年、アトランティック・レコードからMGMレコードに一年間在籍するが、ヒットは出ていない。後にマーキュリー・レコードに移籍し、「タ・タ」、「ラヴァー・プリーズ」をそれぞれチャートインさせているが、散発的であった。次第に過度の飲酒をしてしまう。1968年イギリスに移住する。1970年帰国し、再び活動を始めるも、2年後の1972年6月13日に心臓発作で39歳の若さで死去。1987年、ロックの殿堂入りを果たし、またドリフターズも1988年に同じくロックの殿堂入りを果たしている。

 1972年6月13日死去(享年39)





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