歴代助っ人外人選手展示室

【ロベルト・ペタジーニ】
ロベルト・ペタジーニ

ロベルト・ペタジーニ(Roberto Antonio Petagine, 1971年6月2日 - )はベネズエラ出身のプロ野球選手。現在は韓国プロ野球LGツインズに所属する。身長184cm、体重84kg、左投左打。ポジションは一塁手、外野手。


人物・来歴
日本では、ヤクルトと巨人に所属。両球団で主砲として活躍した。

長打力のみならず選球眼も優れており、足も速く、三振も比較的少なかった。シーズンを通じた調子のムラも少なく、一般に外国人選手が苦手とする変化球にも強かったことなどから、ペタジーニをランディ・バースらと並んで「最強助っ人」の一人と推す野球解説者やファンは未だに数多い。

一塁守備も上手くゴロを取ってから投げるまでが早く強肩で、一塁手のシーズン最多補殺記録を所持しており、ゴールデングラブ賞を3回受賞している。

ヤクルト時代
1999年、ヤクルトと契約。来日1年目から44本塁打を放つ。セ・リーグで40本塁打以上を記録したのは1989年、同じくヤクルトに所属していたラリー・パリッシュ(42本)以来、10年振り。ただし、このうち狭い本拠地・明治神宮野球場で57試合25本塁打を記録している。また、.369という高打率を記録したロバート・ローズ(横浜)を抑え、出塁率.469で最高出塁率のタイトルも獲得している。

当時の若松勉監督を「ボス」と呼んで慕い、監督夫人の誕生日にはプレゼントを贈るなど、首脳陣やチームメイトとの関係も決して悪いものではなかった。それが大きく変化する契機が、2002年の8月中旬以降に阪神タイガース戦と横浜ベイスターズ戦で、米国ではタブーとされる本塁打の直後の死球を立て続けに3度も受けたことである。半月の間に計4度も死球を受けながら、まったく報復を行ってくれないヤクルトのチーム方針(若松監督も、マスコミの前で「報復死球は決して行わない」と断言していた)に不満を抱き、自ら交代を要求してベンチに下がった後、試合終了を待たずに無断帰宅する。この年も文句の無い成績を収めているが、以上の首脳陣やフロントとのトラブル、当時慢性化しつつあった膝痛、高年俸のリスクなどのため契約延長を見送られ、ヤクルトを退団した。

巨人・中日・横浜ベイスターズ・阪神タイガースが争奪戦を繰り広げるも、地理的な条件で阪神と中日が破れ、金銭的な面で横浜が敗れ、出来高を含まない球団側の公称年俸で約7億円の2年契約を提示した巨人と契約を交わした。

巨人時代
2003年、原辰徳監督はペタジーニを5番・ライトで起用した。これは2002年オフにFA退団した松井秀喜の代理として獲得した以上は正ファーストで右打ちの清原和博と併用でなければ獲得意義を持たず、また前年から膝痛を抱えていたペタジーニに元々のポジションである外野を守らせ(ただし来日後の外野手としての出場は1999年に4試合のみ)一塁守備を回避、松井退団後のセンターには外野守備に定評のある高橋由伸をコンバートし守備の核として起用することで守備負担を減らし、膝の負担も減らすという構想であった。

オープン戦時点での(特にスポーツ報知専属)評論家の評価は「ペタジーニの外野は悪くない」「高橋のセンターは松井より遥かに広い」などといった好意的な評価が多かった。しかし、いざシーズンに入るとペタジーニは開幕戦からバックホームを大暴投しスローイングの不安を露呈させ、プロ入り後ライト以外の守備経験が無かった高橋由伸もセンターでの動きの負担から腰痛を発症、守備面での構想は画餅に帰してしまう。

結局、ペタジーニ自身も膝を故障して100試合の出場に留まったが、打撃面では9月13日に史上11人目となる5年連続30本塁打を記録するなど、打率.322、34本塁打、81打点の成績を残した。また、翌9月14日にはプロ野球通算8万号ホームランを記録している。シーズン後半はレフトに回り、清原が欠場した数試合は一塁も守っている。

2004年、監督が堀内恒夫に交替すると本来の一塁に戻り、清原と併用(優先起用)されることになるが、すでに持病の膝痛(膝に水が溜まる持病)も悪化し守備も負担となっていた。それでも117試合で打率.290、29本塁打、84打点を記録するが、自己最低の成績であり、同年限りで日本球界を去った。

巨人時代はヤクルト時代のペタジーニじゃないという意味から「ジーニ」と呼ばれていた(原辰徳監督が命名)。また、リストバンドもヤクルト時代の赤から変更したチームカラーのオレンジにも「GINE」の文字刺繍が入っていた。なぜか巨人ではまず着用する選手がいない(ただし巨人時代の清原和博などが練習時に着用していたことがあった)オレンジのリストバンドを着用していた。

巨人退団後
2005年、メジャーリーグのボストン・レッドソックス傘下の3Aポータケットと契約。同年8月にメジャーに昇格し、8月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では『4番・一塁手』で先発出場した。2006年には、招待選手を経てシアトル・マリナーズとマイナー契約。WBC日本代表がマリナーズと練習試合を行ったときホームランを打っている。また、開幕戦ではフランシスコ・ロドリゲスから代打ホームランを打って首脳陣にアピールし、貴重な左の控えとしての地位を勝ち取った。しかしシーズン中にマリナーズを解雇され、この年で一時引退した。

2008年、メキシカンリーグのメキシコシティー・レッドデビルスで現役復帰後、5月に韓国・LGツインズと契約し、4番打者として活躍した。チームは最下位に沈んだが、迫力不足の打線に大きな力になったため再契約に成功して2009年シーズンもLGツインズでプレイすることになっている。

無類の愛妻家
グラウンド外では愛妻家としても知られ、25歳年上の夫人との熱愛ぶりは有名な話で、練習中でも傍らに夫人が居ようものなら人目憚らずキスをし、テレビカメラの前でのキスも厭わない。夫人はペタジーニの友人の母で、少年時代に友人宅に遊びに行った時に初めて出会った。その友人はペタジーニよりも年上であり、従って義理の息子の方が年上というきわめて珍しい関係である。夫人は試合のみならず、巨人時代はキャンプにも同伴。ペタジーニ夫妻専用の宿舎が用意されるほどであった。2008年、韓国のLGツインズ入団後もしばらくして夫人を韓国に連れてきて、共に生活したようである。





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