【郭 泰源】 国籍 台湾 出身地 台南市 生年月日 1962年3月20日(47歳) 投球・打席 右投右打 守備位置 投手 初出場 1985年 最終出場 1997年 長栄高校 合作金庫 西武ライオンズ(1985-1997) 来歴・人物 1984年のロサンゼルスオリンピックで台湾代表として活躍し西武ライオンズと読売ジャイアンツが激しい争奪戦を繰り広げたが西武に入団した。1年目から「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれた156km/h超の速球を披露した。その後ヒジ痛で速球は影を潜めたが、高速スライダーを武器に変化球投手としてローテーション定着、西武黄金時代の投手陣を支えた。 1991年は近鉄バファローズとの優勝争いになったが、郭は近鉄から7勝を挙げ、優勝の原動力となりMVPに輝いた。その後も安定した投球を見せ、1996年オフには外国人選手として初めてFA権を取得、規定により外国人枠から外れた。しかし同年0勝に終わり、翌1997年も復活することなくホーム最終戦での先発登板を最後に、2番手で投げた鹿取義隆と共に現役引退。 最速で156km/hを記録したその剛速球に加え140km/hを超えるキレの良い高速スライダー、シュートも操り、制球力も抜群と隙がなかった。対戦した打者は「ワンバウンドするかと思ったストレートが地を這うように伸びてきて低めぎりぎりに決まっていた。」と称していた。最強無比と謳われたライオンズ黄金時代の投手陣にあって、ほぼ一度もローテーションの座を譲らなかったのがその実力の何よりの証明である。野球人生が終盤に差し掛かり、速球の威力が衰えたら丁寧にコーナーをつく投球にモデルチェンジをして、全盛期の数値には及ばなかったが、ローテーション投手として成績を残した。やや故障が多く、フルシーズン一軍に帯同したことはあまり多くなかったが、通算勝利数など数多くの分野で日本プロ野球の外国人投手キャリア記録を持っている、球史に名を残す「助っ人」投手であった。 引退後は、台湾プロ野球界でチームの監督を務めた。また、選手として台湾球界に入り指導者としても活躍していた西武ライオンズ時代のチームメイトである渡辺久信・石井丈裕とも協力し、台湾球界の発展に大きく貢献した。また日本球界との架け橋役にもなり、許銘傑、曹竣揚ら台湾人選手の日本球界入りをアシストするなど、その功績は計り知れない。2007年からは野球の台湾代表監督に就任し、2008年の北京五輪出場を目指したがアジア予選で日本、韓国に敗れ3位に終わり、その責任を取る形で12月14日に台湾代表監督を辞任した(後任は洪一中)。なお、2009 ワールド・ベースボール・クラシック台湾代表の投手コーチに就任した。 タイトル・表彰 最優秀選手 1991年 ベストナイン 1991年 ゴールデングラブ 1991年、1992年 勝率第1位 1988年、1994年 1994年は勝率1位でありながら、規定投球回数に達した投手の中で防御率は最下位という珍しい記録となっている。 オールスター出場 1990年、1995年 ノーヒットノーラン 1985年6月4日対日本ハムファイターズ戦 [感想を書く] [最新順][古い順] 感想はありません <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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