往年の名選手展示室

【土井正博】
土井正博

土井 正博
出身地 大阪府柏原市 生年月日 1943年12月8日(65歳)身長181cm
体重 81kg
投球・打席 右投右打 守備位置 外野手、一塁手 プロ入り 1961年 初出場 1962年 最終出場 1981年10月4日 経歴(カッコ内は在籍年)
選手歴
大鉄高等学校
近鉄バファローズ (1961-1974)
太平洋クラブライオンズ
クラウンライターライオンズ
西武ライオンズ (1975-1981)
コーチ歴
西武ライオンズ
(1985-1989, 1996-1999, 2004-2007)
経歴
大鉄高等学校(現・阪南大学高等学校)を2年で中退して1961年近鉄に入団。1年目は2軍暮らしであったが、別当薫監督のもと、2年目よりレギュラーとなり、しかも四番を任され「18歳の四番打者」と注目される。1964年28本塁打を放つと同年から6年連続20本塁打を記録するなど和製大砲として活躍。1970年、賭博容疑(黒い霧事件)で書類送検され1ヶ月の出場停止処分を受ける。迎えた1971年は打率.309、40本塁打、113打点と文句無しの成績をあげるが、本塁打で大杉勝男の41本にあと1本届かずタイトルを逃す。

1974年オフに西本幸雄監督の若手への切替という方針で、太平洋クラブライオンズにトレード移籍。近鉄時代は好成績を残すもタイトルには縁が無く「無冠の帝王」と呼ばれていたが、太平洋移籍1年目に34本塁打を放ち念願の本塁打王のタイトルを獲得。阪急ブレーブス・加藤英司とは2本差だった。1977年2000本安打達成。1979年に球団が西武鉄道に売却された後も若い選手が多い西武の精神的支柱として野村克也、山崎裕之、田淵幸一らとともにチームを支えた。1981年、怪我のため出場試合数が減り、根本陸夫監督の辞任に伴うチームの若返り策に理解を示し現役を引退した。現役時代はチームの優勝を経験する事ができず、日本シリーズに選手としては1度も出場していない。

1982年〜1984年テレビ埼玉の野球解説者を務めた後、1985年に西武二軍打撃コーチ就任。翌1986年に入団した、自身と同じ「18歳の四番打者」の境遇にあった清原和博を指導する。しかし、1989年シーズン中に賭博に絡んでいたことが発覚し、強制捜査で現行犯逮捕され解任される。1990年〜1991年2度目のテレビ埼玉野球解説者。1992年韓国プロ野球の三星ライオンズを経て、1996年〜1999年西武一軍打撃コーチ、2000年〜2003年3度目のテレビ埼玉の野球解説者を経て、2004年〜2007年西武一軍ヘッドコーチを務め、現在は故郷に戻り、大阪市天王寺区に在住。2008年10月1日に行われた清原の引退試合には観戦に来ていた。

打撃フォームは上半身を捻った独特なものであった。最初はカッコだけではじめたものだったが、これが意外にも余分な力が抜け、また成績も上昇したため定着させていった。晩年は、全盛時と比べると捻りはおとなしいものになった。水島新司の漫画「あぶさん」の主人公、景浦安武のモデルの一人で作中「土井さんは俺のフォームの師匠だ。」と語っている。プロ野球選手としては永い間独身であったが、35歳の時に19歳の伴侶を得て話題になった。仲人は当時監督であった根本である。


エピソード
a.. 典型的なプルヒッターで、通算465本の本塁打のうち、ライト方向へ飛んだのはたった3本だったという。一方、ミートについても、本人によればバットを折った記憶がほとんどなく、引っ張り一辺倒のバッティングでありながらバットを折ることがほとんどなかったことを誇りに感じているという。また、三振数の打数に対する割合が.089と1割を切っている。この「三振率1割未満」は400本塁打以上を打ったスラッガーの中では張本勲、長嶋茂雄と土井だけの記録である。
b.. コーチを解任されたのちに清原の技術が停滞し、1990年代に死球禍などに苦しんだことについては、「清原に1軍で勝つための技術だけしか身に付けさせられなかった」としている。
c.. 現役時代、長らく独身で常に遊びまくっていたが、クラウンライター時代の1978年に結婚し、一男一女に恵まれる。
a.. チームが福岡から所沢に移転する際に、東尾修・伊原春樹・竹之内雅史ら主力選手のほとんどが反対していたが、「俺はどこででもやる」と発言。反対していた選手も徐々に納得し出した。

18歳の四番打者誕生の経緯
別当薫監督が近鉄の監督に就任した当時、近鉄は4年連続最下位であり、前年にはシーズン103敗のプロ野球新記録を打ち立てた。別当監督はチーム状況を見て、近鉄が強くなるためには、チームの柱になる選手の存在、とりわけ長打を打てる選手が必要だと強く感じた(長らく近鉄は本塁打、得点ともにリーグ最下位を争うのが常であった)。

別当監督は1961年の秋季キャンプで長距離砲の候補を探す中、当時17歳、プロ入り1年目であった土井が整理対象(解雇する候補)の選手であるのを見て、整理リストから外すように指示した。土井は別当に熱心な指導を受け、翌年、土井を18歳の四番打者に起用した。

土井が結果を出していないのに試合に出続ける状況から、別当監督への選手起用法批判は多々あり、土井の四番起用は弱小球団の単なる話題作りだと非難を浴びたが、長距離砲としてチームの中心になれる器であると感じ、チームが強くなるためには土井を育てることが必要不可欠だと考えた為、起用を続けた。

土井自身は、結果が出ていないのに出場し続けることに相当の重圧を感じており、ある時、出場メンバーから外すように別当に願い出たが、別当監督は「近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、奮起を促した。土井はその期待に応え、別当が近鉄監督3年目となった1964年には、3割30本100打点に僅かに届かなかったが、リーグ最多安打を記録するなど成長。その後、近鉄の中心打者として長らく活躍した。

これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、深く感謝している。




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トッシー

ライオンズのヘッドコーチも風貌がリアルレオじゃないですか!


土井コーチの手腕で、安打製造機、筋金入りのスラッガーを育ててください。

9/5^20:17[削除]

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